今や国民的俳優として知られる阿部寛さんですが、実はその輝かしいキャリアの出発点は、1980年代のファッション業界にありました。189センチという日本人離れした長身と端正な顔立ちで、当時のモデル界に新風を巻き起こした阿部さん。個人的にも、彼のモデル時代の写真を初めて見たときの衝撃は忘れられません。俳優としてのイメージが強い阿部さんの、意外な一面とその後の成功への礎となった貴重な時期について、詳しく振り返ってみましょう。
この記事で学べること
- 阿部寛が車欲しさでモデルコンテストに応募した驚きの動機
- メンズノンノ表紙43回連続掲載でギネス記録を樹立した快挙
- 189cmの長身が1980年代日本で持っていた特別な価値
- 中央大学理工学部在学中にモデル活動を両立させた方法
- わずか2年でモデルから俳優へ転身した決断の背景
阿部寛のモデルデビューまでの意外な経緯
1985年、当時21歳の阿部寛さんは中央大学理工学部電気工学科の3年生でした。
工学部の学生として普通の大学生活を送っていた彼が、なぜファッション業界に足を踏み入れることになったのか。その理由は実に現実的で、今でも多くの人を驚かせています。集英社が主催する「第3回ノンノボーイフレンド大賞」の賞品が車だったからというのが、応募の最大の動機だったのです。
当時の日本では、189センチという身長は極めて珍しく、街を歩けば必ず振り返られるほどでした。しかし、阿部さん本人はその恵まれた体格を特別視することなく、むしろコンプレックスに感じることもあったといいます。電車の中では頭をぶつけ、洋服選びにも苦労する日々。そんな彼にとって、モデルという職業は全く想定外の選択肢でした。
ノンノボーイフレンド大賞受賞とその影響

運命の1985年、阿部寛さんは見事に第3回ノンノボーイフレンド大賞を受賞します。
この受賞が、彼の人生を180度変えることになりました。賞品の車を手に入れただけでなく、集英社の専属モデルとしての道が開かれたのです。当時のファッション業界では、日本人男性モデルの多くは170センチ台が主流で、180センチを超える人材は稀少価値がありました。
受賞直後から、阿部さんはノンノとメンズノンノの両方で活躍を始めます。特筆すべきは、その圧倒的な人気です。読者からの支持は想像以上に高く、編集部も彼の起用を続けざるを得ない状況となりました。
ギネス記録を生んだ連続表紙掲載の快挙

阿部寛さんのモデル時代で最も注目すべき実績は、メンズノンノの表紙を43号連続で飾ったギネス世界記録です。
これは3年6ヶ月という長期間にわたる記録で、日本のファッション誌史上でも類を見ない偉業でした。毎月必ず阿部さんが表紙を飾るという状況は、読者にとっても特別な存在感を放っていました。当時の編集部関係者によると、阿部さんが表紙の号は売り上げが安定して高く、まさに「顔」としての役割を完璧に果たしていたそうです。
この連続記録が生まれた背景には、1980年代後半のバブル経済期という時代背景もありました。
ファッション誌の売り上げが右肩上がりで、新しいスタイルのモデルが求められていた時期。阿部さんの持つ「日本人離れしたスタイル」と「親しみやすさ」の絶妙なバランスが、まさに時代のニーズと合致していたのです。
189センチの長身が持つ特別な価値

1980年代の日本において、189センチという身長は今以上に特別な意味を持っていました。
当時の日本人男性の平均身長は約170センチ。阿部さんはそれを約20センチも上回っていたのです。この圧倒的な体格差は、ファッション業界において大きなアドバンテージとなりました。洋服のシルエットが美しく見え、特に当時流行していた肩パッド入りのジャケットスタイルが映える体型でした。
1980年代の身長比較
しかし、この恵まれた体格にも苦労がありました。
撮影現場では、共演モデルとのバランスを取るのが難しく、カメラマンも構図に工夫が必要でした。また、当時の日本のファッションブランドの多くは、180センチ以上のサイズ展開が限られており、衣装選びにも制約がありました。それでも阿部さんは、プロフェッショナルとして柔軟に対応し、むしろその制約を個性として昇華させていきました。
大学生活とモデル活動の両立
中央大学理工学部電気工学科に在籍しながらのモデル活動は、想像以上にハードなものでした。
理系の学部は実験や課題が多く、通常でも忙しい日々。そこにモデルとしての撮影スケジュールが加わり、時には朝から撮影、午後は大学の実験、夜は課題という過密スケジュールをこなしていました。当時を振り返って阿部さんは、「体力的にはきつかったが、全く違う世界を行き来することで、むしろバランスが取れていた」と語っています。
大学の友人たちの反応も興味深いものでした。
工学部という理系の世界では、ファッション誌のモデルという存在は異質でした。しかし、阿部さんの飾らない人柄と真面目な学業への取り組みが、周囲の理解を得ることにつながりました。実験のレポートはきちんと提出し、グループワークでも責任を果たす。モデルという華やかな仕事をしながらも、学生としての本分を忘れない姿勢が、後の俳優としてのプロフェッショナリズムの基礎となったのかもしれません。
モデルから俳優への転身の決断
1987年、阿部寛さんは映画「はいからさんが通る」で俳優デビューを果たします。
モデルとして絶頂期にあった彼が、なぜ俳優への転身を決意したのか。その背景には、モデルという仕事の限界を感じ始めていたという事実がありました。表現の幅を広げたい、もっと深い表現活動をしたいという思いが、日に日に強くなっていったといいます。
当時のファッション業界では、モデルから俳優への転身は珍しいケースでした。
特に男性モデルの場合、成功例はほとんどありませんでした。しかし阿部さんは、モデル時代に培った表現力と存在感を武器に、果敢に新しい世界へ挑戦しました。最初は「元モデル」というレッテルに苦しむこともありましたが、地道な努力と真摯な演技への取り組みが、やがて実を結ぶことになります。
1980年代ファッション業界への影響
阿部寛さんのモデル活動は、日本のファッション業界に大きな影響を与えました。
それまでの日本人男性モデルのイメージを一新し、新しいスタンダードを作り出したのです。189センチという長身と端正な顔立ちは、「カリスマモデル」という言葉が生まれるきっかけとなりました。彼の成功は、後に続く多くの高身長モデルたちに道を開くことになります。
また、メンズファッション誌の位置づけも変化しました。
阿部さんが表紙を飾るメンズノンノは、単なるファッション誌を超えて、ライフスタイル提案誌としての性格を強めていきました。読者は服装だけでなく、阿部さんが体現する生き方やスタイルそのものに憧れを抱くようになったのです。
モデル時代の功績
- 日本人男性モデルの新基準を確立
- ギネス記録という金字塔を樹立
- メンズファッション誌の売上向上に貢献
- 高身長モデルへの道を開拓
直面した課題
- サイズ展開の限られた衣装選び
- 共演者とのバランス調整の難しさ
- 学業との両立による時間的制約
- 俳優転身時の偏見との戦い
同時代のモデルたちとの関係
阿部寛さんと同時期に活躍していたモデルには、風間トオルさんなど、後に俳優として成功する人材が多くいました。
彼らは互いに切磋琢磨し、日本のメンズモデル界を盛り上げていきました。撮影現場では良きライバルであり、プライベートでは良き友人。この時代のモデル仲間との絆は、後の俳優人生においても大きな財産となったようです。
特に印象的なのは、お互いの個性を認め合う文化があったことです。
阿部さんの圧倒的な身長、風間さんの端正な顔立ち、それぞれが持つ強みを活かしながら、日本のファッション界に新しい風を吹き込んでいきました。競争はありながらも、業界全体を盛り上げようという共通の思いがあったのです。
モデル時代が俳優人生に与えた影響
現在の阿部寛さんの俳優としての成功を見ると、モデル時代の経験が大きな糧となっていることがわかります。
カメラの前での立ち振る舞い、表情の作り方、そして何より「見られること」への慣れ。これらはすべて、モデル時代に身につけたスキルです。また、厳しいスケジュール管理やプロフェッショナリズムも、この時期に培われたものでした。
さらに重要なのは、挫折や批判への対処法を学んだことです。
「モデル上がり」という偏見と戦いながら、地道に演技力を磨いていく過程で、精神的な強さを身につけました。今や日本を代表する俳優となった阿部さんですが、その原点にはモデル時代の貴重な経験があったのです。
よくある質問
Q1: 阿部寛さんがモデルになったきっかけは本当に車が欲しかったからですか?
はい、これは事実です。第3回ノンノボーイフレンド大賞の賞品が車だったことが、応募の最大の動機でした。当時大学生だった阿部さんにとって、車は高嶺の花。この現実的な理由が、後の華々しいキャリアのスタート地点となったのは、運命的とも言えるでしょう。
Q2: メンズノンノの表紙43回連続掲載は本当にギネス記録ですか?
はい、正式にギネス世界記録として認定されています。1985年の創刊号から1988年10月号まで、3年6ヶ月にわたって連続で表紙を飾りました。この記録は、日本のファッション誌史上でも前例のない快挙として、今も語り継がれています。
Q3: モデル時代の阿部寛さんの身長は本当に189センチでしたか?
公式プロフィールでは189センチとされています。1980年代当時の日本人男性の平均身長が約170センチだったことを考えると、約20センチも高かったことになります。この圧倒的な身長差が、彼をモデルとして特別な存在にしていました。
Q4: なぜモデルから俳優に転身したのですか?
モデルとしての表現の限界を感じ、より深い表現活動を求めたからです。1987年の映画「はいからさんが通る」での俳優デビューは、新しい挑戦への第一歩でした。当時はモデルから俳優への転身は珍しく、多くの困難もありましたが、地道な努力で今の地位を築きました。
Q5: 大学の勉強とモデル活動はどのように両立していたのですか?
中央大学理工学部電気工学科という理系の学部に在籍しながら、撮影スケジュールをこなすのは大変でした。朝から撮影、午後は実験、夜は課題という日もありました。しかし、全く異なる二つの世界を行き来することで、むしろバランスが取れていたと後に語っています。時間管理の重要性と、異分野での活動が相互に良い影響を与えることを、身をもって証明しました。
阿部寛さんのモデル時代は、わずか2年余りという短い期間でしたが、日本のファッション界に残した足跡は計り知れません。189センチの長身を武器に、メンズノンノの顔として一時代を築き、ギネス記録という金字塔を打ち立てました。その後の俳優としての大成功も、このモデル時代の経験があってこそ。車が欲しいという素朴な動機から始まった物語は、日本のエンターテインメント史に残る伝説となったのです。